赤鬼・青鬼の名コンビ

東洋大姫路監督故故田中監督、故梅谷コーチの厳しい指導のもと兵庫県の高校野球をリードにした東洋大姫路。
鉄壁な守りを中心に隙のない野球で甲子園をゆるがした。

田中氏は「守りを基本とするオーソドックスな野球」を目指した。
二人は練習メニューの 綿密な打ち合わせを行い、グラウンドでは主に、外野ノックとピッチングは田中氏が指導し、内野ノックとバッティングは梅谷氏が指導した。 田中氏は実践で経験するあらゆる種類の飛球を、そのノックバットから打ち出した。

47年夏の選手権大会に2度目の出場を果たし、甲子園初勝利に導いた。

東洋大学附属姫路高等学校野球部創部50周年記念試合によせて

東洋大姫路野球部の50年は、「大きな目標」に向かい続ける負けじ魂の歴史であろうと思います。
1963年 東洋大学附属姫路高等学校開校と同時に創部され、当時は体育館もグランドもなく敷地をブルドーザーが走り回る中、初代の松永監督と大久保部長の石拾いから始まるグランド整備からのスタートでした。
創部同年10月より梅谷馨氏が監督に就任し「野球は身体で覚えるもの、相手に優る猛練習が勝利をもたらす」という信念の下、猛練習の東洋野球がスタートしました。

1969年、創部7年目にして初の甲子園出場を成し遂げたことは、監督を務めていた梅谷氏にとっても悲願の達成でした。 そして、梅谷監督は甲子園出場という目標にとどまらず、全国でも有数の強豪校に名を連ねるための熱い想いを心に秘め、県大会で優勝を決めた翌日、県立姫路商業高校の監督をしていた田中氏の自宅を訪問。
当時、公立高校でありながら強豪私学と競っていた野球部の田中治監督の指導者としての資質に惚れ込み、直談判したのです。熱い想いが伝わり、梅谷・田中コンビの誕生に至ったのです。後に「東洋の赤鬼・青鬼」と呼ばれ東洋大姫路旋風を巻き起こしました。

田中氏が監督就任後の1972年から3年間、夏の甲子園連続出場という快進撃は、戦後に於いて県立芦屋高校、報徳学園に続く偉業であります。特に1974年の夏は、同年、春の選抜大会 優勝校である報徳学園との激闘試合を制しての出場で、「夏に強い東洋」と呼ばれるようになりました。
そのあと監督に復帰した梅谷氏は、1977年夏、度肝を抜く戦法で高校野球ファンを魅了し、東洋大姫路が大会史上初の決勝戦サヨナラ本塁打で全国優勝の偉業を達成しました。 東洋大姫路野球部の歩みは、故梅谷馨氏と故田中治氏の存在なくしては語れないでしょう。

時を経て、二人の名将に育てられた指導者が、今まさに「夏の東洋」と呼ばれた名門を復活に導いています。名将から受け継がれた「東洋大姫路の魂」は、創部50周年を迎え、さらなる前進を期待させることを願っています。

 

東洋大学附属姫路高等学校野球部OB会
前会 長  中 﨑  俊 作